団体アルバイトの始まり
昭和26年広島にて開催された国民体育大会にて使用したヨット (ディンギー、スナイプ) を払い下げを受けて広島大学ヨット部が立ち上げりましたが当時何をするにも資金不足で元宇品海水浴場の砂浜が艇庫でした。その後、地元の市会議員の尽力により国立公園に広大ヨット部艇庫が建設されて艇庫拡張工事の時には多くのヨット部員の勤労奉仕により向宇品の山を切り崩したために昭和31年入学の多くの新人が脱落しました。
当時は千田町の工学部の中に橋本ヨット部長 (船舶助教授) の好意で校舎横の敷地にこれらのディンギー、スナイプを持ち込んで合宿前の整備を実施していました。整備といっても杉の皮を木製の艇体の水漏れをしているところにノミで押し込んでその上に“ドクチャン”とい塗料を塗布して出来上がりという方法でした。
これらの整備を実施するにもそれぞれの材料を購入する資金が必要となり部費で賄えないところはヨット部で各種アルバイトをして資金を捻出していました。其のアルバイトの一つとして広島市が例年8月6日前後に開催する広島祭り委員会の市内各町内会を回って行くイベントのお手伝いを広島市観光課から丸投げでヨット部で引き受けて各商店街のイベント、野球観戦等を取り仕切っていました。この時、広島市観光課の担当者はヨット部の組織力を信頼して頂き企画、運営まで引き受けさせて頂いた年が数年続きました。
これらのアルバイトにて得た収入ではなかなか新艇を購入するに至らないと言うことで“ペギー葉山リサイタル”と言った興行に発展していったという経緯があります。当時は“働き方改革”はどちらを向いているのか分からない時代で夜遅くまで市庁舎に住み込んで各種計画を立案していました。当時のアルバイトの関係で市役所の中に多くの知人が出来てその後の活動の役に立ったことも記憶しています。