広島大学ヨット部
創部70周年 記念事業
日 程
2019年8月11日(日) ~ 8月12日(月・祝)
場 所
広島市文化交流会館・広島観音マリーナ
日 程
2019年8月11日(日) ~
8月12日(月・祝)
場 所
広島市文化交流会館・
広島観音マリーナ
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庭田雄二前会長を偲んで

藤井 
広島大学体育会ヨット部 第13代
藤井 健

庭田前会長は昭和24年、広島文理大、広島高等師範等を統合して設置された新制大学の1期生として広島大学工学部に入学されました。卒業後、広島ガスを経て千福・三宅本店に勤務され、東京支店長、常務取締役、相談役を務められました。また、ヨット関係以外でも呉ライオンズクラブ、小型船安全協会、水交会、呉市体育協会など多くの団体を会長、監事などとしてお世話をされました。人望厚く多くの皆さんから慕われていました。

昭和26年の第6回広島国体を前に24年、広島県ヨット連盟や広島大学ヨット部が発足しました。庭田さんはヨット部初代主将を務め、県ヨット連盟の運営にも当たられました。25年には第1回の広島県、中四国学生、呉市民大会のヨット競技会が行われ、30年にはその後60年続いた瀬戸内海横断ヨットレースを立ち上げるなど、広島ヨット界を黎明期から支えたリーダーでした。

第6回国体のヨット競技は宮島の包ケ浦で開催され、庭田さんは開催準備に当たると同時に選手として参加、8位入賞を果たしました。第5回国体から12回国体まで8年連続して選手や監督として出場し、何度か入賞されています。その後、日本ヨット協会の理事やルール委員に就任。国体本部役員として主にプロテスト委員を務め、平成元年の北海道江差での「はまなす国体」ではプロテスト委員長を担われました。国体への参加、本部役員としての活躍は通算35回にわたり、国民体育大会功労賞を受賞されています。

(公財)広島県セーリング連盟は平成5年から平成8年にかけて、アジア大会(広島観音マリーナ)、第51回広島国体(呉市阿賀マリノポリス)など4年連続で国際大会や全国大会を主管しました。庭田さんはそれまでに培った人脈で、日本協会と開催地とのパイプ役として力を発揮されました。温厚な性格ながら、理に合わないことには決して妥協しない強い信念をお持ちでした。広島のもう一人のリーダーであった渡辺文人さんと日本協会の幹部の前で、国体準備について口角泡を飛ばして議論する姿に私は傍でただオロオロするばかりでした。また、ヨット競技には海上自衛隊の支援が不可欠で、アジア選手権から国体まで4年間、多くの舟艇と隊員が長期間出動して運営支援をされましたが、その折衝の席には必ず庭田さんの姿がありました。

広島大学ヨット部しぶき会では初代会長としてOB会の組織固めをされ、インカレの応援で各地に行かれました。クルーザーを広島から西宮まで奥様と2人で回航され、西宮ヨットハーバーに停泊された話を楽しそうに語ってくれました。しぶき会でも県連の運営でも、決して他人に無理強いはされず、人情味溢れるキャラクターで人を惹きつけ、後輩は皆気持ち良く仕事ができました。ご尊父様は海軍技術中将として戦艦「大和」の設計に携わり、大和ミュージアム(呉市)の大和コーナーに今も写真入りで「設計者」として紹介されています。庭田さんが海を好きだったのはお父上の影響があったのかも知れません。

平成26年12月、忘年会の打ち合わせでお宅に電話した際、散歩の途中転んで救急車で病院に運ばれたと奥様からお聞きし、呉共済病院に駆け付けると丁度ストレッチャーで検査に行く途中でした。共済病院ではお元気で普通に話もされていました。その後リハビリ科のある中通病院に転院されました。

瀬戸内海小型船安全協会の理事会の後、審判仲間の愛媛の西田さんと一緒に中通病院に見舞い、彼が帰り際に「庭田さん、退院したらまた千福を飲ませてくださいよ~」というと、「そりゃ~無理じゃわいや・・・・」。私が聞いた庭田さんの最後の言葉でした。その後、自宅近くの木村胃腸科病院に転院し1年以上胃ろうをされましたが、しぶき会の皆さんがお見舞いに行った時も眠ったままで話はされませんでした。

平成29年11月5日、永眠されました。訃報を伝えるためにしぶき会に電話を掛けると、柚木衛会長以下主だった幹部は富山の全日本インカレ会場におられました。インカレ最終日だったのです。私と丁度一回り上の午年生まれの87歳で大変豊かな人生でした。

勤務先が呉だった私に何かにつけ声をかけてくださり、国体の審判では沖縄から北海道まで10数回もご一緒しました。50年以上もの長い間、ヨットも人との交わりでも多くのことを教えていただきましたし大変お世話になりました。心からお礼を申し上げ哀悼の誠を捧げます。

庭田前会長を偲んで